何かのニュースを見て「なんだあいつはやっぱり偉そうなこと言っていながらダメな奴だったんじゃん」という感想を誰かが持ったとして、それはとりあえずはその感想を持った人にとって「役立った」ことになるんだろう。

一体なんの役に立ったのか。この場合にはジェラシーが解消されたように感じられたということだ。自分が引き上げられたように感じられたということだ。もっと言ってしまえば、評価されたと同義に、立ち位置が変化したような「気がした」ということだ。

でも、これを役立つというのだろうか。
勝負はどこにも存在していない。

このような心理的ヴァーチャル納得力は、実用性であるとされている。
なんで?と思う。
おそらく、立ち位置が変化したように感じた本人にさえ、それは違和感を伴ってしか実現していない。なのに「それでいいんですよ」という声がどこからともなく聞こえてくる。

どこからともなく。どこ?どこなの?
そこはたぶん、お金がお金を生む場所であり、宣言するだけで戦争を終わらせる(始められる)場所であり、所有が所有という生物として生きながらえる場所であり、なんか有り得ないのに存在している、不気味としか言いようのない場所だ。

例えばこのサイトが、写真ブログと他人のネタの紹介ブログと、自分の作品の紹介サイトと、思いつきの放言ブログと、というように専門的に分化していくことが「メディアになる」ということなんだろうと思う。そこで腹をくくってやっていけば少なくとも千倍ぐらいのアクセスは余裕で稼げる。たぶん。ちょっとやってみたことがあるからわかるのだ。

そこで実現されるのは分かり易さだ。利用し易さだ。早い話が雑誌なわけだ。HOW TO本なわけだ。つまるところ人が望んでいるのは「自分にとって即役立つ情報」なわけだ。そしてこの「自分にとって即役立つ情報」という文章の中で最も核心にあるのは「即」というその一文字だ。これを「今」に置き換えてもいいのかもしれない。逆に言えば、役立つかどうかは「未来」に棚上げしておけばいいのだ。「胸は残して五日でやせたい!」とか、「超小型ノートPCが100円で買える!」とか、そこにあるのは99%翻弄に過ぎない。でも、五日でやせられるならそれもいいかも。100円で買えるならそれもいいかも、という気持ちがその情報を支える。そして、出来る限り、その情報が信用に足る情報源であるように見えるように、考えなくてもいいようにブランド化される必要がある。ニュースやゴシップ、テクノロジーや政治、あらゆるものが即時性の幻想の元に単語単位でブランド化される。

ブランドとは考えることを麻痺させるための専門化だ。メディアは手段を超えて、依存対象になる。それはイヤなんだ。とってもイヤだ。ただ、分かり易さを否定するつもりはない。それが依存に繋がらないならば。でもこれこそ幻想だったりするんだよな。

05:28
依存をベースにした尊敬なんてくだらない。ほんとにくだらない。 それは速いくせに濃密な、蜜のような時間を失わせてしまうだけだ。

いや、お店じゃなくてもいいんだけど、例えばコレクターのお部屋が目指すところはやっぱりお店なんだよなと思うわけで、システムキッチンにびしっと整理された調理器具とか、壮観な食材が詰め込まれた冷蔵庫とか、「見せる収納」とかの理念によって整理された洋服とか、そういうのを見てると、お店だなぁとしみじみしちゃうのだ。

気持ちはとても分かる。駄菓子屋丸ごと欲しかったし、プラモデル屋丸ごと欲しかったし、デパート丸ごと引き出しの中にしまっておきたかったし、遊園地丸ごと屋根の上に載せておきたかったし、このお菓子屋さん、全部地下室に入れおいてね、とか言いたかったし、そんな願望に振り回されるほどにはままならぬ少年時代を送ってきた身としては、とにかく「とても分かる」ことなのだ。

そしてその気持ちと、際限ないほどモテたいとか、賛辞と拍手にまみれてみたいとか、誰もが自分に笑顔を見せてくれるとか、朝起きたらやっぱり出来るんじゃんと思うような才能が身についていたとか、ってことは、全く同じことなんだろうと思う。

でもさ、「それどうすんの?」って思うほど過剰な欲望であることも事実なんだよな。だってそんなに沢山のオブジェクトの面倒を見るのってとってもウザイ。埃かぶるでしょ。腐るでしょ。嘘でしょ。箱の中身見たことないでしょ。そんなに乗り回せないでしょ。

かく言う俺も面倒見切れないほどの本だの金具だの道具だのジャンクフードだのオモチャだのに囲まれて暮らしているわけで、人のことなんて言えたもんじゃないし、言うつもりもないんだけど、このお店願望はとんでもないパワーで誰もの心を蝕んでいまくる。その勢いと強制力といったら海よりも広くどんな山よりも高いぐらいだ。どんな例えだよ、それ。

でもこれって、物凄く男の子的なことなのかもしれない。女の子だったら、そこで「いらっしゃいませ」と言いたいかもしれないけど、そんなことはこれっぽっちも思わないもんな。

スーパーサイヤ人1、2、3という変化に誰もが引きずり込まれる。うんざりしつつも(もちろんドラゴンボールの話)。どうせならスリーまでいってみたいと思ってしまうのだ。

漫画を成立させるのはグラフィックの記号化だ。ゲームを成立させるのはグラフィックの記号化だ。表された画像が「これは怒りによって目覚め、深層に眠っていた力が引き出された男の子です」として単純化されれば、それは画像を超えて記号となる。そして記号が加速させるものがある。それは物凄く単純化された価値体系だ。それは身体的感覚を無視した、あるいは経験を飛び越えた「物語」としての時間軸だ。

そこで起きることはリアリティのインフレーションだ。

グラフィックの記号化を否定するつもりはこれっぽちもない。ただ、記号化はそのような誘惑と常に結びついている。インフレには気をつけないといけない。なぜなら、作る側においても受け入れる側においても、例えそれが市場価値に結びつこうとも祝祭的にしか機能しないからだ。そして、祝祭はある覚悟の上で成されなければ何の意味もないと思うのだ。覚悟のない祝祭は、それに参加した人間をズタズタにし得る。人が自ら望むのに翻弄にしか繋がらない暴力。

03:52
何を読者に求めるのか、何をプレイヤーに求めるのか、何をオーディエンスに求めるのか。

そして

何を知りたかったのか、何を経験したかったのか、何を見たかったのか。

例えばディテールの意味は説得力だけではない。それは表現における時間の流れをコントロールすることも出来る。

例えば構造の合理性は説得力だけではない。それは現実の経験を変化させることが出来る。

外側にあるんじゃないかと思い込んでいる了解に依存するのは間違っている。

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